ことばえらび 

読んだ本 聞いた言葉 忘れられない事

そして、バトンは渡された 瀬尾まいこ

どんな本でも、誰がいつ読んだかによって感じることは全くことなる。

同じ人であっても、高校生の時に読んだのと、働き始めて読んだのと、30を目前にして読んだのでは全然違うことを感じるだろう。

無論、結婚したり、子供が生まれたり、その子供が巣立って行ったりしたらまた全く違うだろう。

 

30年ばかし生きてきた。

結構必死に、生きてきた。

でも私にとって、私の人生は五里霧中である。

そんな私の感想である。

 

個々のエピソードには納得できないところがいくつかある。

水戸さんには、なぜ無理してでも優子ちゃんをブラジルへ連れて行かなかったのか、日本に帰ってきていたのなら本気で探せば会えたかもしれなのに、あなたはそれをしたのか、と言いたくなるし、

梨花さんには、あなたは自分自身のことも面倒見れていないのに、他人様の娘を自分勝手に巻き込んで振り回してはいけない、あなたが振り回していいのは泉ヶ原さんみたいな人だけだよ、と言いたくなる。

森宮さんはやっぱり、いくら梨花さんの口車に乗せられた面があるとはいえ、高校生を突然自分の子供として面倒見るなんてお人好しが過ぎる。

 

でも、読み終わった時には、これで良かったのかもしれない。と思える。

それは、それぞれのキャラクターがとても魅力的だからだろう。

 

梨花さんみたいな気づいたら人を巻き込んでいる人はとてもモテる。

その時その時の梨花さんの気持ちは心からのものだから、まっすぐで、人の心によく響く。

周りの人は、その気持ちが長続きしない可能性に薄々勘付きつつも、彼女に関わってしまう。彼女には泉ヶ原さんみたいな、包み込んでくれる人がぴったりだ。

見方を変えれば、梨花さんという女性は、お金があったら全部使ってしまうだらしない女性で、3人の男性につけ込み、1人からは最愛の娘を奪い、1人を財布として利用し、もう1人には無理やり奪った娘を押し付ける、とんでもない悪女に見えるのだけれど、彼らはそんな風には彼女のことを思っていない。

むしろ、彼女はそういう人だから、と達観していそうだし、巻き込まれることを楽しんですらいるかもしれない。娘を奪われた水戸さんは違うかもしれないけれど。

 

彼女の独占欲は恐ろしいものがある。

連れ子の小学生と暮らし始めて、水戸さんから奪い、

水戸さんからの手紙を優子ちゃんが読んだら、梨花さんよりもお父さんを選ばれるかもしれないからと手紙を渡さず、優子ちゃんとの生活を何食わぬ顔をして続ける。

後に彼女が告白しているように、水戸さんからの手紙が届く度に彼女は罪悪感に苛まれたに違いない。父から娘を引き離すことは、許されることであったのかと。自分の自分勝手なのではないか、と。

事実、大変自分勝手である。でもそれだけ、彼女にとっては優子ちゃんのいる日々が不可欠であったのだろう。

人から奪ってでも、優子ちゃんとの日々を欲していたのだ。梨花さんが優子ちゃんに対して常に愛情を注ぎ続けたのは、水戸さんに対する罪悪感からだけではない。ただただ、本当に、彼女は優子ちゃんと一緒にいたかったのである。

もしかしたら、27歳の水戸さんと出会うまでの彼女は、あまり真剣に人生を生きてこなかったのかもしれない。なんとなく生きていたら気づいたら27歳になってしまっていて、虚無感と共に日々過ごしていたのかもしれない。

20代後半から30代前半の女性は、いや、男性もかもしれないけれど、仕事やプライベートなど色々なことがうまく行っていようが、いなかろうが、自分の未来があまり輝かしいものにはならなさそうだ、と勝手に沈みがちである。

いつか夢見た大人の年齢に自分が近づいて、果たして自分はそんな人になれているだろうか、と自問自答して落ち込む。なんでもっと自分の人生を自分でちゃんと考えてこなかったんだろう。周りに流されて生きてしまったんだろうと、過去の自分の無責任さにがっかりする。(それは私だけかもしれないけれど。)

こんな未来が、自分の求めていたものなのかと。

そこへ現れる救世主が優子ちゃんである。小学生、どんどんできることが増えて、毎日挑戦して、日々前進している優子ちゃんは彼女にとってキラキラして映ったのだろう。この子と過ごしこの子を支えることで、自分の人生をもっと意義のあるものできるのではないかと、

意義なんて難しいことは梨花さんは考えないかもしれないけど、でもそんなことを思ったのではなかろうか。だから彼女にとって優子ちゃんは生きがいなのだ。

優子ちゃんも、梨花さんの愛情をひしひしと感じていたからこそ、

成長してもなお、梨花さんのことを、「私をお父さんから引き剥がした人」とはならず、

大切な人として、一緒に過ごすことができたのだろう。

 

森宮さんにとってもそういう面はおそらくあって、

血も繋がっていない子供をしかも高校生になってから引き取るなんて、

優子自身も言っているように何もいいことはなさそうなのに、

彼にとっても優子ちゃんは救世主なのだろう。

優子ちゃんにとっても、森宮さんが一番親らしい役割を果たしていて、

帰る場所を提供してくれる存在で、時に本気で注意してくれるし、

風来坊との結婚は許さず、なかなか折れない。

時折ずれているけれど、ただただお父さんみたいなことをしてくれる。

森宮さんの優子ちゃんへの愛情には、どこか、本当は自分も親にこんな風に接して欲しかった、という要素が感じられる。

テレビや映画、漫画でこういうシーンあるじゃない?と事あるごとに彼は言う。

彼はただ勉強ばかりして、勉強していればいいと言う青春を過ごして、

父とは希薄な関係で大人になってしまった人のように見える。

かつて、親からの愛情に飢えていたのではないかと感じるところもある。

彼にとって、優子ちゃんに親として接することが、親からの愛情不足を清算する効果があったのかもしれない。

早瀬君のお母さんに森宮さんが送った手紙には、素直じゃない森宮さんらしさが詰まっていながらも、温かい愛情を感じた。

 

梨花さんだけでも、森宮さんだけでもこの物語はこれほど味わい深くならなかっただろう。

梨花さんとの生活が突然終わったからこそ、

森宮さんの、ちょっとずれているけど、とてもあたたかい優しさが心に沁みる。

あたたかい日々の後だからこそ、泉ヶ原さんと再婚した梨花さんを受け入れることができる。

そして、バトンは渡された。 いい話だった。

 

発想の転換

お題「始めるVS続ける 得意なのはどっち?」

多くの日本人にとって、

『継続は力なり』という諺はある種呪いとして作用しているように思う。

継続することが正義で、続けられず途中で方向転換することは恥ずべきことであると、

小さい時から我々は刷り込まれている。

 

私自身典型的な日本人なので、継続することが正義と思ってかれこれ30年ほど過ごしてきたし、

継続すること自体はそこまで苦手ではないというか、

忍耐することが美徳であると刷り込まれてしまっているので最早修正しようがなく、

自分自身を苦しめてもいて困っている。

なので、始めるのが得意、という考え方は私にとってとても新しく、

目から鱗が落ちる思いであった。

 

始めるのが得意、いいじゃないか、この響き。

美しき愚かものたちのタブロー 原田マハ

絵画はよくわからない。

何がすごいのか、全然わからない。

でもなんとなくゴッホのアルル星降る夜や、モネの睡蓮には惹きつけられる。

そのぐらいの無知な若者が読んでも心揺すぶられ、

国立西洋美術館や、オランジェリー美術館、オルセー美術館(アルルの寝室が収蔵されている)に行ってみたい、と思わせる力を持っている。強い本である。

 

最近の日本にはカリスマ性を持ったヒーローがあまりいない。

明治から高度成長期あたりまでの日本人のエネルギーは凄まじいものがある。

雑草精神というのか、列強に名を連ねてやるのだ、という強い意志。

第二次世界大戦後の復興しようという不屈の精神。

松方幸次郎もエネルギーに満ち溢れた人であったに違いない。

そう思うと同時に、一方で

いつの時代も人は、現状には落胆し、昔の良かった時代を懐かしむものなのかもしれない、とも思う。

 

本作を読むまで、歴史にはあまり興味が持てなかった。

1900年以降の近代史であっても、私にとっては

それ以前の江戸時代の出来事と同様教科書の中の出来事でしかなく、

あまり現実味がなかったのである。

しかし、本作の登場人物たちは、それこそ、ほんの少し前まで生きていた人たちだが、

彼らはまさに歴史の生き証人として確かに存在していたのである。

クロードモネという画家が確かに存在し、自宅の庭で絵の具を重ねたことが、

事実であったように。

教科書の中の出来事は確かに、現実に起こっていたことなのである。

それも、芸術、工業、経済など個々の事象は分断されているのではなく、

当時の経済や、世界情勢、技術レベル、文化の潮流など全て複雑に絡み合っているのだ。

そのような時代に生きていた人たちは一体どんな心境で日々過ごしていたのだろう。

今の私には想像できないほどに、彼らは逞しく、タフだったのであろうか。

 

私はなんてぬるま湯に浸かっているのだろう。と少し寂しくもなった。

 

期待に応えたい 期待を超えたい そして褒めてもらいたい

’期待に応えたい 期待を超えたい そして褒めてもらいたい’

大泉洋さんがことあるごとにインタビューでこう話している。

誰でも大なり小なり承認欲求というものはあると思う。

テレビで見ている限り、彼は承認欲求は強そうに見える。

自分自身に自信はそこまでなくて、他者からの評価で自分を形作っているような印象。

結婚された時も

’こんな自分と一生一緒にいてくれる人はこの人くらいなんじゃないかと思った’

とコメントされていたり

撮影現場の雰囲気が良くなるように場をほぐす発言をされたり、

サービス精神が旺盛、とも言えるけれど、

彼は相手の表情からいろんな感情を読み取って悩んでしまうタイプなんじゃないかと邪推してしまう。

若い頃の映像では駄々をこねる弟みたいな印象もあって今の印象とは相反するところもあり不思議だけれど。

 

期待に応え続けられる人はすごいけれど、

そのためには大きな犠牲を払っていたりする。

頑張って頑張って、限界まで頑張って、結果を残したことがある人は、

悪い意味で努力のリミッターが外れてしまって、頑張りすぎてしまうことがある。

例えば、毎日15時間勉強して、志望校に合格してしまったりすると、

頑張るというのは、限界まで頑張るってことなんだ、と自分で思ってしまう。

受験の前から完璧主義の傾向はあったんだろうけど、より強固になる。

褒められ、優等生として接されるうちに、

知らず知らずのうちに、自分の中での合格点が高くなっていて、

及第点に到達しているうちはいいけれど、

到達できなくなってくるとものすごい自己嫌悪に陥る。

全か無か思考とか、解釈の歪みとか、色々なものが重なった結果ではあるのだけど、

期待に応えたい、っていうのは厄介な感情だなとも思う。

 

大泉さんのエッセイを読むと、

締切に間に合わなかった言い訳が内容の回がある。

書こうと思ったんだけど、東京のご飯が美味しすぎて行列のできるラーメン屋に並んだり事務所の副社長と夕食に行っていたら〆切過ぎちゃった。

みたいなしょうもない言い訳。

そのくらいの自分に対する甘えもあったほうがいいのかもしれない。

 

大人になる?

よく「大人になって〇〇した」みたいな言われ方をする。

大概、大人になって聞き分けが良くなったり、余裕が出てきたり、懐が広くなったり、

成長したよね、みたいなニュアンスで語られることが多いと思う。

しかし果たして大人になったら本当に成長するのか?人は。

少なくとも私の周りの人は、いい人は昔から、それこそ中高生の頃からいい人だし、

無神経な人はおじさんでも無神経だ。

というか、地位とか肩書きがついたぶん厄介なことになっている人も多い気がする。

 

自分自身のことを振り返ってみると、

10代の頃と比べて、なんとか自分で食っていける職業に就かなければ、という

謎の焦り(高校生が考えることとして大変夢がないけれど)は資格をとったことで若干軽減したと思う。

いい子でなければいけない、という強迫観念も当時よりは小さくなったけれど、

でも、今でもそれが私をとても苦しめている。数年前の方がむしろ肩の荷は軽かった。

打算的な人とか、人を陥れる、ずるい人が苦手なのは変わらない。

自分は世の中の平均から少しずれている、という感覚もあまり変化がない。

 

環境とか、立場が人を作るというところはあるとは思う。

けれど、人間の根本的なところはあまり変わってはない気もする。

一方で、大学一年生の頃に書いた文を見返したりすると、

この10年で視野が狭くなっているというか、凝り固まっている感じがした。

もっと柔軟で突拍子もないことを考えていたはずなのに、

枠に収まってしまったんだな、みたいな。

この先の10年、20年過ごしたらどんなことになっているのか。

楽しみなような、心配なような。

ことり 小川洋子

小川洋子さんといえば、博士の愛した数式が一番はじめに挙がると思う。

が、私には本作の方が心に染みを残した。

 

ことりの小父さんは、小鳥と通じ合っている兄を支えて生きている。

兄は、小鳥の世界に生きているから、ある意味いい。

浮世離れしているけれど、本人もそこまで周りを気にしちゃいない。

小父さんも、すごく純粋無垢で、無害で、うつくしい存在である。

なのに、兄ほど吹っ切れていないためにかえって世の中の冷たさに晒される。

ゲストハウスの管理人として穏やかな日々を過ごしているだけなのに、

奇人変人のような扱いを受ける。鳥小屋の掃除の役割さえも奪われる。

小父さんに接触してこようとするのが怪しい男たちで小父さんにダメージを与えるのも辛い。

虫箱に鈴虫を入れていた老人も、小鳥を愛する小父さんと通じ合えるのかと思いきや、

鳴かなくなった鈴虫を踏み潰す。

この老人がまた少女の脂を箱に塗ったりして相当怪しい。

メジロを買いに来た男に関しては最悪で、メジロを集めて無理に鳴かせて、

鳴き合わせ会を開催して、小鳥を愛する小父さんにとっては耐えられない苦痛であっただろう。

 

お兄さんがポーポー語を話し始めたところから、

この兄弟は世の中の主流から外れた。

世の中の俗物的なものから外れたのはむしろ美しいことであって、

彼らは小鳥と通じることで彼らなりに穏やかで幸せな日々を過ごしていた。

兄が亡くなって、崩れたリズムをまた鳥小屋の掃除や、本を通じてまた築いていく。

その小さな穏やかな生活を、世の中が壊そうとする。

小鳥だけがこの兄弟の理解者だった。

 

 

SNSはやらない。Twitterとか、インスタとか。

なぜって、気持ちが辛くなるから。

友達とか、フォロワーが何人いて、記事をあげて何人が反応してくれるか、気になって

日に何回もSNSにアクセスしてしまうし、

いかに面白いこと、オリジナリティのあることを書くか、

これを読んで気分を悪くする人がいるんじゃないか、と

気になってしかたなくなってしまうから。

昔から、大人の顔色ばかり窺う子供だった。

少しでも周りの空気が悪くなると、

何か悪いことをしたのではないかと落ち着かない。

(それは今でもずっとそうだけど。)

自分だけが悪いわけじゃないと思うのに、なぜか先に謝ってしまう。

怒っている人がいたら、まあまあ、あちらにもこういう事情があったのかもしれませんから、

と宥める。

全体の空気をよくしようと、ものすごくエネルギーを使って実はすごく疲れているのに、

周りの鈍感な人たちがその気遣いに全く気づかず、

泥のついた靴で踏み荒らすようなことをすると、

へとへとになる。

平和主義なんです、と昔言ったら、事なかれ主義なんだね、と先輩に言われた。

この二つは全然違うと私は思うけれど、わかっていただけなかった。

 

自分という軸がない。

他人が写す鏡としての自分しかいない。

自分のことなのに、自分でコントロールができない。

だから生きるのがつらいのだ。

何をどこで間違えたのか。