ことばえらび 

読んだ本 聞いた言葉 忘れられない事

タイムスリップ

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

文や本を読む意味はは他人の価値観に触れることだと思うのだが、

他人の書いた文に限った話ではない。

数年前、引越しの時に大学に入りたての18の時に書いた哲学のレポートが発掘された。

当時の自分は自由で、夢想家だった。

発想が突拍子もなくて 

たった数年で人間の脳は凝り固まるのだと知った。

元々文才があるわけでもなし、つまらない人間なのは今に始まった話ではないのだけれど、

人間の感じることや考えることは日々移ろうものだから、

今感じたことを残しておくことは決して無駄なことではないはずだ。

知り合い程度には言えないこともあるけれど、

一方で、近しい人にだからこそ言えないこともある。

世の中の多くの人からすれば、私の言葉は、

ネットのゴミ山に放置されるわずかな埃にすぎない

しかし、私にとっては、自分が自分を知り、分析するために

残しておく価値のある資源である。

にんげんこわい

人が好きなのに、人が怖い。

何を考えているのかよくわからない時があるからだ。男性は特に。

普段どちらかというと、他人の感情が言葉や態度、視線、雰囲気などの端々から嫌というほど感じられて、

むしろ自分の感情がよくわからず置いてけぼりになることの方が多いのだけれど、

時折、自分の理解の範疇を超えた言動や行動を他人から受けることがあって怖い。

人に心をかき乱されると落ち着かなくなる。

ますます他人に自分を開示するのが怖くなる。

 

ジヴェルニーの食卓 原田マハ

人が人に抱く感情には色々ある。

愛情、友情、尊敬、信頼、親心、下心、、、

心情を表す言葉には色々なものがあるけれど、

同じ言葉でも色々な意味を包含している時もあるような気がするし、

同じ言葉でもいつも完全に同じ心情を表してはいないと思う。

相手が誰かによって、どういう状況かによって、抱く感情は変わるから。

それに、感情が双方向性でないこともあるかもしれない。

プラスの感情か、ネガティブな感情かくらいは流石にわかるけれど、

相手が何を思っているかなんて本当に本当のところはわからないし、

わからないほうがいいというところもあるのかもしれない。

 

男親はどちらかと言えば娘が可愛いし、

女親はどちらかと言えば息子が可愛いとはよくいうが、

年上の男性は若い女性に目をかけがちだ。

非力な(物理的も、精神的にも、経済的にも)女性を目の前にすると

本能的に力になりたくなるのだと思う。

そこに本人の自覚する下心があるかどうかに関わらず、

生物学的にそういうふうにプログラミングされているのではなかろうか。

その時の感情は広い意味では愛情に近いのだと思うけれど、

親が子を思う愛情か、恋愛関係の愛情かは2人の関係性によるのか、

そもそもどちらもあり得るのか、私にはよくわからない。

二つの感情に共通しているのは、守ってあげたいという庇護欲だけれど、

親から子の愛情には恋愛関係にあるような独占欲はないような気がする。

(大人になっても息子にデレデレの姑は独占欲もあるのかもしれないけど)

それでいくとオペラ座で踊り子のパトロンとなるようなおじさんは、

独占欲があるのだろうから後者で、

ドガの踊り子に対する思いは前者なように思えるけれど、

ドガの心情が完全に親のような愛情かというと否であり、ちょっと変態的ではある。

ドガの場合は、踊り子は少なくとも恋愛の対象ではなくて、

観察や研究の対象だという要素が大きいからだろうか。

 

マティスとマリアの関係も難しくて、

一種、教祖と信者みたいなところがある。

世の中のカリスマ的な人とすぐ近くにいる人にはある程度そういう気質があると思うのだけど、

恋愛とかを逸脱した、心のつながり、普通とは違う上下関係ができる。

マティスとマリアが双方恋愛関係になろうとすることを望むことはあり得ない。

マティスの死後、マリアが修道女になったのも別に恋破れたわけでは決してないのだけれど、

心の拠り所をなくした感覚は失恋した時の苦酸っぱい心情と少し似通っているかもしれない。

 

色々な感情は一つ一つが切り離せるものでもなくて、

どちらかというと、色々なプラスの感情の最終像が愛情に収斂するようにも思う。

ドガの踊り子に対する、マティスのマリアに対する、モネのアリスやブランシェに対する心情はそれぞれ、愛情と表現して差し支えないだろう。

それどころか、タンギー爺さんのセザンヌをはじめとした画家たちへの心情もまた、愛情と表現できるだろう。

でも前三者タンギー爺さんのそれが完全に同質のものかと言われると、どうだろう。

ちょっと自信がなくなる。

 

異性に対して抱く感情と同性に対して抱く感情、広義では同じ愛情と表現されるものであったとしても、果たして完全に同じだろうか。

 

男女平等が叫ばれるようになって久しいけれど、

真に男女平等になることが可能だろうか。

私にはあまりそうは思われない。

罪悪感と孤独

子供の頃から、なぜか罪悪感を感じて生きてきた。

別に、何か大きな罪を犯したわけではない。

ただただ、生きていることを赦して欲しかった。

小さい頃から、何か浮いている、馴染めない感覚をずっと持ち続けてきた。

なんでみんなと同じようになれないんだろう、

なんで普通になれないんだろう。

普通になれない自分は受け入れてもらえないし、理解もしてもらえないんだ、

と子供ながらに苦しかった。

どこからか、普通になることはもう諦めて、

1人で生きていくために必要なことを身につけることにした。

勉強を頑張って、1人で食っていけるような職に就こう。

小学生にしては夢がないけれど、大真面目にそう思っていた。

同時に、世の中的に必要な人になれれば、

多少普通じゃなくても、受け入れてもらえるのではないか。

とも思っていた。

 

結果どうなったか。

毎日、罪悪感と孤独の波が押し寄せる。

1人の時間がないと、疲弊してしまうのに、完全にひとりぼっちでは生きていけない。

数年前の日記に

「少し前までの自分は、1人でいるのが気楽でいいやと思っていたけれど、1人にしておいてくれる周りの人のありがたさに気がついていないだけだった。本当のひとりぼっちなんて、何もいいことはない。」

と書いていた。改めて見返しても、その通りだと思う。

ある程度の自己肯定感がないと、人は困った時に人に頼ることができない。

助けて、話を聞いて、と声を上げたときに、

あんたのネガティブな話なんて聞きたくない、私にはあなたの話を聞く余裕はない、など

突き放されたと感じるようなことが起こると、

それが致命傷となりうるからだ。

さらに、実際相手から言われなかったとしても、

ネガティブなことばかり言う自分という人間は厄介だし、こんな厄介者に巻き込みたくない

とも思ってしまうから、誰にも相談できなくなる。

友人関係とか恋愛関係も同様で、相手がいい人であればあるほど、

このような人間に巻き込んではいけない、と思う。

(もちろん、嫌なやつとはできるだけ関わりたくないから)結果的に1人にしかなり得ない。

なのに、心のどこかではまだ完全に諦めてもいなくて、

本当に理解してくれる何かを探してもいる。

 

なんとなくだけれど、作家や画家で自殺した人にはシンパシーを感じることが多い。

彼らはもがき苦しみ、助けを求め続けていた。

私も同じだ。なんとなく、長生きはできない気がする。

 

 

 

 

楽園のカンヴァス 原田マハ

本の表紙絵にもなっている、アンリ・ルソーの『夢』

見れば見るほど引き込まれる

本当に、森に連れて行かれるんじゃないかと言う不思議な感覚になる 

2x3メートルの大きさでなんて見てしまったら恐ろしくて夜眠れなくなりそうだ。

読んでいる途中から、森見登美彦の小説『熱帯』が頭に浮かんで仕方なかった。

熱帯の無人島にいる男が夜になると獣に化けてジャングルを彷徨くという描写があったからだろうか、、、 

 

たゆたえども沈まず 原田マハ

ゴッホ兄弟は脆い。

特に兄のフィンセントは本当に脆い。

感受性が豊かで、世の中の多くの人と違う世界の見え方をしていたからこそ、

彼の描く絵は意味があるのだろうけれど、

どこへいっても、苦しくなる彼の姿は、

小説で読んでいるだけでも苦しい。

自分も性格属性としては彼らと似た方向で

なんとなくわかる部分もあって、それがまた辛い。

孤独で、もがいて、溺れている

助けを求めている。

世の中はいつもマジョリティに優しく、マイノリティには冷たい。

傑作はまだ 瀬尾まいこ

他人の気持ちがわかるなんて思ったら大間違いだ。とたまに思う。

世の中のほとんどの人が同じことを感じであろう状況や言葉も確かに世の中にはある。

でも、多くの場合は、人は自分の過去の経験や自分がどう思うだろうかという予測によってしか、他人の気持ちを推測することはできない。

予測することはできても、必ずしも当たるとは限らないし、

私の目に見えていることが、その人にとっての真実かどうかもわからない。

なぜなら、私というフィルターを通してしか私を物事を見ることができないから。

自分と同じ気持ちであるに違いないという驕りが時に人をひどく傷つけることもある。

それに気づいていない人は結構多い。

 

昔、現代文の小説の問題を小説の作者が解いたら満点取れなかったという話を聞いたことがある気がする。

現代文の試験なんて、試験を作った人の解釈を押し付けられているに過ぎない。

文を読んでそこから何を感じるかなんて、個人の自由なのに、

みんなと同じことを感じなければいけないなんて、窮屈なことこの上ない。

この時の彼の気持ちはどのようなものか?なんて、試験で聞くことじゃない。

 

この物語の中で主人公は何回か、引きこもり生活をしていたから社会性が足りなくなったとか、人の気持ちがわからなくて無神経だと、周りの人に指摘される。

小説の登場人物のセリフを考えて喋らせているくせに現実世界の人間の気持ちなんて少しもわかっていなかったんだ、と本人も考えている。

確かに、お客さんが来たらお茶淹れるでしょとか、高齢夫婦2人ぐらしの家に大福10個はないと思うけれど、そういう気が利かないというのと、

息子の前で子供ができたのは事故ですみたいなことを言うのはなんだか違う気がする。

想像力が足らない、結局は根本的にはそこに帰結する気もするから同じなのか、、

それはともかく、彼は、引きこもって小説を書いてばかりいたから想像力が足らない人になったわけでは多分ない。

本来、中学生から高校生くらいまでには身につけるはずだったスキルだと思われるから。

社会人になったからって、そう簡単に身につくものではない。

むしろ、空回りして、息苦しくて、うまく順応できない自分に嫌気がさす。

彼自身も言ったように、子供ができた責任を取るために結婚して3人での生活を智が生まれた当時に始めたとしても、うまくいっていたとは思えない。

だからかなんだか、智が一緒に住むようになって地域の人と関わるようになってから明るくなって、小説も暗いものから脱却して、最終的には清美もたまに会うようになると言うのがなんとなく納得できない。