ことばえらび 

読んだ本 聞いた言葉 忘れられない事

ジヴェルニーの食卓 原田マハ

人が人に抱く感情には色々ある。

愛情、友情、尊敬、信頼、親心、下心、、、

心情を表す言葉には色々なものがあるけれど、

同じ言葉でも色々な意味を包含している時もあるような気がするし、

同じ言葉でもいつも完全に同じ心情を表してはいないと思う。

相手が誰かによって、どういう状況かによって、抱く感情は変わるから。

それに、感情が双方向性でないこともあるかもしれない。

プラスの感情か、ネガティブな感情かくらいは流石にわかるけれど、

相手が何を思っているかなんて本当に本当のところはわからないし、

わからないほうがいいというところもあるのかもしれない。

 

男親はどちらかと言えば娘が可愛いし、

女親はどちらかと言えば息子が可愛いとはよくいうが、

年上の男性は若い女性に目をかけがちだ。

非力な(物理的も、精神的にも、経済的にも)女性を目の前にすると

本能的に力になりたくなるのだと思う。

そこに本人の自覚する下心があるかどうかに関わらず、

生物学的にそういうふうにプログラミングされているのではなかろうか。

その時の感情は広い意味では愛情に近いのだと思うけれど、

親が子を思う愛情か、恋愛関係の愛情かは2人の関係性によるのか、

そもそもどちらもあり得るのか、私にはよくわからない。

二つの感情に共通しているのは、守ってあげたいという庇護欲だけれど、

親から子の愛情には恋愛関係にあるような独占欲はないような気がする。

(大人になっても息子にデレデレの姑は独占欲もあるのかもしれないけど)

それでいくとオペラ座で踊り子のパトロンとなるようなおじさんは、

独占欲があるのだろうから後者で、

ドガの踊り子に対する思いは前者なように思えるけれど、

ドガの心情が完全に親のような愛情かというと否であり、ちょっと変態的ではある。

ドガの場合は、踊り子は少なくとも恋愛の対象ではなくて、

観察や研究の対象だという要素が大きいからだろうか。

 

マティスとマリアの関係も難しくて、

一種、教祖と信者みたいなところがある。

世の中のカリスマ的な人とすぐ近くにいる人にはある程度そういう気質があると思うのだけど、

恋愛とかを逸脱した、心のつながり、普通とは違う上下関係ができる。

マティスとマリアが双方恋愛関係になろうとすることを望むことはあり得ない。

マティスの死後、マリアが修道女になったのも別に恋破れたわけでは決してないのだけれど、

心の拠り所をなくした感覚は失恋した時の苦酸っぱい心情と少し似通っているかもしれない。

 

色々な感情は一つ一つが切り離せるものでもなくて、

どちらかというと、色々なプラスの感情の最終像が愛情に収斂するようにも思う。

ドガの踊り子に対する、マティスのマリアに対する、モネのアリスやブランシェに対する心情はそれぞれ、愛情と表現して差し支えないだろう。

それどころか、タンギー爺さんのセザンヌをはじめとした画家たちへの心情もまた、愛情と表現できるだろう。

でも前三者タンギー爺さんのそれが完全に同質のものかと言われると、どうだろう。

ちょっと自信がなくなる。

 

異性に対して抱く感情と同性に対して抱く感情、広義では同じ愛情と表現されるものであったとしても、果たして完全に同じだろうか。

 

男女平等が叫ばれるようになって久しいけれど、

真に男女平等になることが可能だろうか。

私にはあまりそうは思われない。